ライナーのブラームス交響曲第3番

私の大好きな名盤・その14

ブラームスの交響曲第3番
指揮:フリッツ・ライナー、演奏:シカゴ交響楽団、録音:1957年12月

このライナー盤は第2番と同じように、入手は困難を極めた。その甲斐あって大好きになったのではない。聴き込むほどに含蓄の深さが感じられる名演奏だと思えてきたからだ。LP時代のベイヌム盤に始まりベーム、ワルター、CD時代に入ってトスカニーニ、ヴァルト、カラヤン、カイルベルト、ジュリーニ、バルビローリなど多くの指揮者の演奏を聴いてきたが、どれも決め手に欠く感じで、それが原因で、本来大好きなはずの曲なのに、曲そのものの魅力までもが薄らいできた感があった。

ライナーの2番の圧倒的名演に接してからは、3番もぜひ手元においてじっくり聴きたいと思っていた。それが思いがけない形で手に入り、浮き浮き気分で聴いたとき、足元をすくわれる感覚に襲われた。2番のように圧倒的な演奏とは程遠く、物足りなく聴こえたのだ。でもなぜか聴き終った後また聴きたくなってしまう。繰り返し聴くと同じブラームスでも、2番とは曲に対する解釈の仕方が全く違うということが解ってきた。人生の終盤、四季でいえば晩秋のはらはら落ち葉が舞い落ちるのを見ながら我を振り返る、そんな思いの詰まった演奏なのだ。

2番はブラームスの「田園」3番は「英雄」と評されることがあるが、それは分類好きでベートーヴェンの後継者のレッテルを張って事足れりと思ってよしとする人たちのことで、そのような人にはライナー盤の真意は理解できないだろう。ブラームスがベートーヴェンの交響曲後継者と自覚しての悩みが多くあったとしても、ロマン派の時代を生きた人だ。和歌に例えるなら万葉集と古今集の関係みたいなものだ。

第1楽章や第4楽章の勇壮と聴こえる場面、懐疑や諦観で直ちに彩られてしまう。その移ろいの表現が凄まじく美しい。第3楽章を除く3つの楽章が弱音で終わるのが特徴の曲だが、ほかの演奏に比べてこれほど念入りに心こめている演奏はないだろう。この作品の聴かせどころを心得ているからだ。まさにロマン派の作品なのだ。

第1楽章の第2主題は再現部で木管楽器の旋律に提示部とは違う浮き上がらせ方をして、色彩に深みを与える工夫など、他者では聴けない彩りがあって、シカゴ交響楽団の美質がいかんなく発揮されている。提示部を繰り返さずに…ロマン派音楽は情緒の移ろいが最優先だと思うのに繰り返す演奏を選ぶこと自体、おおいに疑問である…進んだ後の展開部にかけてのところで、ライナーさんは少し感情を高ぶらせている。曲全体の初めの方に高揚の頂点を持ってくる解釈が、この交響曲の本質を物語っているのではないだろうか。

第2楽章は弦楽合奏と木管との掛け合いに始まるが、晩秋の雑木林に分け入って魂の彷徨を表しているような場面が耳に心地い。トリオを挟んで初めの旋律に戻ると、木管の掛け合いとなって色彩を増す工夫を作曲者はしているが、弦を差し控えることが そのあとの弦楽合奏で楽章の頂点をつくる工夫でもあったのだと解ってくる。そんな楽章の構成が見通しよく解るように、ライナーさんは演奏しているのではないだろうか。他の演奏では、そんなことに気付かなかった。

第4楽章の勇壮と聴こえる管楽器の掛け合いは、他の演奏のように大きく盛り上がることはない。ライナーさんにとって重要なのは、そのあとに続く夕日が沈むような静かな終盤を綿々たる情緒で紡ぎだすことだった。

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