登山をしながら撮った写真と描いた絵を、山域ごとに紹介します。

《悪沢岳の石》

1986年の夏、塩川から悪沢岳をめざした。三伏峠小屋、高山裏小屋と泊まり継ぎ、明くる日に絵の道具と行動食を持って悪沢岳を往復した。悪沢岳は南アルプスの南部で一番高い山なのに、その主役を赤石岳に譲り、はたまた荒川三山と一纏めにされてしまっている控えめな山なのだ。だからこそ私は密かに、極地法登山と称して塩川から往復したかったのである。
悪沢岳の山頂付近は、深みのある赤茶色の鋭角的な岩が重なっていて、独特の景観を形作っていた。その中から小さな石をひとつ持って帰った。個展会場の芳名禄用の文鎮にしたかったからだ。
しかし数年が経ち、その魅力的だった重厚な赤茶色が、いつしか色褪せてきたように思えてならなかった。石の表情が寂しそうだった。山に帰りたそうだった。返しに行こうと思い始めてから3年程が過ぎた。
そして翌年の夏、その250グラムの石をリュックサックに入れて、駒鳥池のある尾根を登った。
悪沢岳の山頂は深い霧に包まれていた。穏やかな南斜面を少し下った所で、9年間私の部屋に居た石が落ち着く場所を探した。病んでいる石が不自然に見られないように置くのには、少し手間がかかった。私はその場所からすぐには立ち去り難くて、霧の赤石岳方面を見詰めながら、しばらく腰をおろした。
そこここにイワギキョウが咲いている、美しい所だった。                  ~版画集「光る山山」より~