磐梯山より桧原湖と飯盛山

2016.5.3 10:00AM 作品番号788

大賑わいの山頂でしたが、岩がゴロゴロとしてて広いところだったので人の目を気にすることなく描けました。芽吹き始めの柔らかな広葉樹の山並みと、深い色を湛えた湖面の対比が印象的でした。

桧原湖より磐梯山

2016.5.4 4:00PM 作品番号789

夕方の斜光線に浮かび上がる磐梯山。この日は、あいにく雨模様だったのですが、夕方の、突然の変化に目を奪われました。たぶん、早い段階で、山の上は晴れていたのでしょう。明治期に起きた磐梯山の噴火でせき止められて出来た多くの湖沼群によって、霧が発生しやすい地域となり、それが一気に晴れあがったのではないかと思われます。

香深より利尻山

1970.8.18 作品番号91

礼文島の桃岩付近は、高山植物が美しいところでした。もう一つ印象的だったのは、地元のおじさんに声をかけられた時のことです。京都から来たということが分かり、「いいところに住んでいるなあ」と言われましたが、その意図は、当時大阪万博の真っ最中で、「何回でも行ったやろ。ワシはやっとこの間、行ったべ」ということだったのです。万博には全く興味がなかったから、行ってませんでした。礼文島のおじさんに声を掛けられたのがきっかけで、北海道から帰った後、大学の友達を誘って1度だけ万博へ行ってみました。並ぶとか、混雑したところとかが嫌だったから、結局、アフリカのどこかの国のパピリオンを、ちょっと覗いただけ、だったように記憶しています。

  姫沼より利尻山

1970.8.18 作品番号92

利尻島に渡りましたが、 一度体調を崩すと、意欲も低下したようで、利尻山にも登らずじまいで帰途につきました。やはりユースホステルは満員で、神社の社務所兼民宿に泊まりました。夜には炬燵が入り、神主さんはラクダのシャツにパッチという出で立ちでしたから、かなり寒かったわけです。帰りに静岡で下車して、高校時代の友達の下宿に行きましたから、体力は回復していたのでしょう。旭岳頂上からの、とてつもない大きな景色には、びっくりしましたし、阿寒の硫黄山の高山植物の美しさにも大きな感動を覚えました。富良野線沿いのお花畑、襟裳岬の昆布干しの万国旗のような風景、ノシャップ岬の『北方領土を返せ』の文字にも、いたく気持ちを動かされた気がします。帰ってから1週間ほどのちには、丹後の間人へ卓球部の合宿に行き、続いて湖西安曇川のコーラス部合宿へと、ほとんど家にいない活動的な夏でした。

地蔵岩付近

1970.8.17 作品番号89

稚内駅で宿泊しようと計画していたのですが、夜行列車が到着しない駅なので、締め出されてしまいました。駅前に軒下はなく、夏でもかなり寒かったので、「はてどうしたものか」と思案している時(夏のシュラフは持っていましたが、テントやマットは持っていませんでした)、一人のおじさんが、「ワシのマンションに泊めたろうか」と声をかけてくださいました。おじさんに付いてマンションまで行くと、「ここの廊下でいいやろ」ということでした。それが原因なのか、礼文島に渡る船で酔ってしまいました。礼文島も人気スポットで、予約なしではユースホステルに泊まれず、250~300円ほど高い民宿に泊まりました(民宿は800円)。

  ウトロより知床連山

1970.8.13 作品番号86

その頃の若者の泊りと言えば、ユースホステルでした。そのユースホステルには7泊しましたが、他の夜は、駅舎(切符がレアになった「愛国」駅にも泊まりました)とか、夜行の各停列車とかに、泊まり次ぎました。移動にはヒッチハイクも、よくしました。知床へ向かう時は、ダンプカーに乗せてもらいましたが、「きのう羅臼岳で、ヒグマ出没騒ぎがあったよ」と、教えてもらい、羅臼岳に登ることはやめました。ウトロからの知床遊覧船は、予約券がないと乗れないことが分かって、絵を描くにとどまった次第です。

望湖台よりペンケトー

1970.8.12 作品番号85

白根三山より帰って、3日間ほどアルバイトをした後、次は北海道へ行きました。国鉄の北海道均一周遊券8800円(現地までの往復は、急行の自由席に乗れる)を使って、15日間ほど、北海道を文字通り周遊してきました。その頃は、横長のキスリングを背負って歩く格好から、「カニ族」という名前が出来たほど、ブームだったようです。青函連絡船も含めて、26時間揺られ続け、大沼公園駅に降り立った時、「やっと地面が動かない」という、気分が湧いてきたのを覚えています。